第二次世界大戦の史跡、日系人マンザナー強制収容所

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 広島、長崎、そして終戦記念日。日米が互いに戦っていたことを改めて思い知らされる機会が多い今日このごろ。
 NHKもあえてこのタイミングに合わせたのか、戦時中の日系人強制収容所など戦争や人種差別問題に焦点を当てた話題のドキュメンタリー番組「渡辺謙 アメリカを行く」の放送に力を入れている(BS放送は先月、総合放送は 8月15日)。

 また、時期は少々ずれて昨年秋の話になるが、民放で放送された日系アメリカ人の戦時中の苦労を綴った橋田壽賀子作のドラマ「99年の愛」も話題を集めたときく。

 そんな背景もあってか、先日読者からマンザナー日系人強制収容所に関する問い合わせがあった。今週はこの話題を取り上げてみたい。
(日本語表記はマンザナ、マンザナールなどいくつかあるようだが、ここでは現地の英語での発音に近いマンザナーと表記。アクセントは「マ」の部分)

 マンザナー日系人強制収容所は在米日系人はもちろんのこと、一般アメリカ人の間でもよく知られている戦争遺産で、日本でも知る人ぞ知るアメリカ西海岸有数の史跡だ。

 場所はカリフォルニア州の内陸部で、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ラスベガスを頂点とした三角形のほぼ中央。
 渋滞がなく道路事情が良いのと、景勝地デスバレー国立公園(写真下)とのセットで訪問できるとあって、ラスベガスからのアクセスが何かと便利だが、どこから行くにせよ公共の交通機関がなく、レンタカーで行くしかないのが難点だ。

 もともと意図的に不便な場所に設けられた施設なので、この立地の悪さはあきらめるしかないが、とにかくラスベガスからの場合、雄大な景色を楽しみながらの片道4~5時間のドライブとなる。

 第二次世界大戦が始まるかなり前から、多くの日本人が仕事を求めて海を渡った。
 一時的な出稼ぎの人もいたが、そのままアメリカに根をおろしアメリカ国籍を取得した人も多く、また、彼らから生まれてきた子供たち、つまりいわゆる日系二世や三世たちは特別な事情がない限り自動的にアメリカ国籍を取得することになる。

 日本でアメリカ人というと、とかく白人をイメージしてしまいがちだが、アメリカはもともと移民によって造り上げられてきた国。
 今も昔も、さまざまな国を祖国とする人たちによって国家が形成されており、当時の日系人も立派なアメリカ市民であったことはいうまでもない。

 ところが日本軍による真珠湾攻撃で戦争が始まると、日系アメリカ人は大統領命令によって隔離されてしまうことに。

 国籍的には明らかに「アメリカ人によるアメリカ人の隔離」という異常事態になるわけだが、その隔離のために用意された施設が日系人強制収容所で、全米各地のへき地に 10ヶ所建設された。

 その中でもとりわけ有名なのがマンザナーで、現在ここは国営の史跡モニュメントとして国立公園管理当局によって管理運営されている。(上の写真はその入口)
 西海岸の大都市から比較的近いという立地条件だけでなく、約11,000人の収容者の中に宮武東洋という写真家がいたため、多くの鮮明な記録が残されているのもマンザナーの特徴だ。

 なお、前述の「渡辺謙 アメリカを行く」の中で取り上げられているのはマンザナーではなく、番組内のキーパーソンともいえるノーマン・ミネタ氏(サンノゼ市長、下院議員、商務長官、運輸長官などの経歴を持つ日系の大物政治家。911同時多発テロの際、運輸長官として航空管制の指揮をとったことで日本でも広く知られている)が収容されていたワイオミング州にあるハートマウンテン強制収容所。一方、「99年の愛」の舞台はマンザナーだ。

 さて現在のマンザナーについてだが、数々の物品、写真、動画などを見ることができる資料館と、復元された住居棟(写真)、さらに収容中に命を落とした人たちの墓地(写真下)、などで構成されている。

 また、敷地全体の広さを体感できるよう、当時存在していた塀に沿って一周数キロメートルのドライブコース(未舗装)が用意されており、だれでも自由に走行することが可能。入館料や入場料などはない

 地域全体の環境は、4000メートル級の山々が連なるシエラネバダ山脈のふもとの荒野。目の前にそびえるその連山の美しさとは対照的に、人里から遠く離れた不毛の地といった感じの敷地周辺は、非常に殺風景で何ともいえない寂しさが漂っている。

 風の音以外には何も聞こえない荒涼とした無機質なこの地に 1万人を超える同胞が塀に囲まれながら4年間も住んでいたという事実。当時の様子を想像すればするほど、だれもが感傷的な気持ちになることだろう。

 展示に対する感想は賛否両論で、人それぞれ複雑なようだ。
 収容者が野球をやっている写真や野球用具そのものの展示、配給されたおもちゃとそれで楽しく遊ぶ子供たちの様子(写真)、さらにはバースデーパーティーや演芸に興じる写真などもあり、「食べるものすらなかった日本に比べれば、ずいぶん恵まれている」といった日本からの訪問者の意見もあれば、「こんな楽しいことばかりではない。もっと過酷で劣悪な環境の写真も展示すべきだ」といった日系人からの厳しい声も聞かれる。

 日本と中国の間で議論が絶えない南京大虐殺の展示に代表されるように、歴史に関する認識は当事者間で異なるのが世の常で、このマンザナーの展示における中立性に対しても議論がまったくないわけではない。(上の写真は収容所全体の模型と、見学者に解説する館内スタッフ)

 ただいえることは、比較的新しい史実であるため多くの記録がしっかり残されていることと、当時の事実を知る収容所体験者がまだ多数存命中であることなどから、史実を大きく曲げた展示はしにくいはずで、「現在展示されているものに限っては大きな誤りはない」 というのが関係者の共通した認識のようだ。

 また、この資料館そのものが、人種差別禁止を金科玉条とするアメリカ政府によって新たに制定された法律に基づき、「二度とあやまちを繰り返してはならない」との反省の意味を込めて造られたものであり、差別の存在を否定するような展示をするわけにはいかない。

 ちなみにその法律とは、日系議員が中心となって提出された「強制収容は間違いであり、きちんと謝罪すべき」との立案によってレーガン政権時に成立したいわゆる「日系アメリカ人補償法」で、実際に収容体験者全員に一律2万ドルが支払われ、また同時に、間違いを繰り返さないための史実の保存や学校教育のための教育基金も設立された。

 そのような経緯をたどり、この日系人強制収容の問題はとりあえず法律的にはすべて解決を見ることになったわけだが、いつの時代もどこの国も、加害者側と被害者側の心のわだかまりは長く残るもので、その認識の差を完全に無くすことはむずかしい。
(この写真は、手前が、日本軍による真珠湾攻撃の写真と、テロリストによるニューヨーク攻撃の写真を同列に並べた展示で、その後方の壁にはマンザナーに収容された日系人全員の名前が記載されている)

 その典型とも思えるのが、広島、長崎、真珠湾だろう。
 日本では広島と長崎の被曝はその記念日に毎年トップニュースとして大きく報道されるのに対して、アメリカでそれらが話題になることはよほどの特別な事情でもない限りまずない。

 一方、12月の真珠湾はまったく逆で、アメリカでは追悼セレモニーなどが毎年トップニュースに近い扱いで大きく報道されるのに対して、日本ではその事実すら報じられず、終戦記念日という言葉はあっても開戦記念日など存在しないに等しい。

 日系人強制収容は国対国の問題ではなくアメリカ人対アメリカ人の問題であったため、法的合理性の観点から議論すれば解決しやすい案件であったと言えるが、原爆や真珠湾に対する日米間の歴史的認識の一致や感情論の完全な払拭は、あと何十年たっても実現しないだろう。
 少なくとも当事者の存命中は議論のきっかけすらつかめないのではないか。(上の写真は「ここに男子トイレがありました」など、当時の各施設の存在場所を示すプレートが立てられた敷地と、そこを歩く見学者)

 マンザナーの史実とその後の問題の解決の経緯を知ることは、いずれ原爆や真珠湾の歴史認識の議論に関わるであろう次のゼネレーションのリーダーたちにとって非常に役に立つはずだ。若い人たちこそ大いに訪問してもらいたい施設という印象を受けた。

 行き方は、ラスベガスから Pahrump という小さな町を通り抜け、デスバレーの中心地 Furnace Creek を経由し、190号線を西に向かう。
 途中 136号線に乗り換え Lone Pine という小さな町に到着したら右折する形で 395号線を北。約15~20分走ると左手の荒野の中にポツリと施設が見えてくる。

 ということで現地取材に基づく記事はここまでで、以下は余談だ。

 アメリカ政府による展示を見ただけでは加害者側の理論しか見えてこないおそれがあるので、念のため被害者側の意見も聞くために、ロサンゼルス郊外に住む収容体験者を訪ねた。

 体験談を語ってくれたのは、小学生の時に収容され4年間マンザナーで過ごしたビル・セキ氏。(写真。展示館側の収容者名簿では Chitoshi Seki、写真下)

 開口一番に言われたことは、展示されている内容に特に大きな誤りはないが、当時の実際の生活はかなり厳しいもので、特に各部屋やトイレなどに仕切りが無かったりするなど住環境が劣悪だったとのこと。

 また、当時の日本を知る日本人から見ると、物質的にはかなり豊かに見える部分もたしかにあるかもしれないが、4年間外に出ることができないという自由を奪われた精神的な部分でのつらさは計り知れないもので、特に子供よりも大人にとっては耐え難い世界だったようだ。

 子供はもともと行動範囲がせまいので肉体的にも精神的にも比較的負担は少ないが、大人はそうはいかず、ケンカや言い争いごとが多く、自殺などの話も子供ながらにときどき耳にしたという(場所や方法なども語ってくれたが、あえてそれは割愛)。

 もめごとが絶えなかった最大の理由が派閥の存在というから興味深い。
 簡単に言ってしまえば、アメリカ派日本派かということ。
 つまりアメリカ国民として日本と戦うことができるか、それとも祖国日本を愛し天皇陛下を絶対的な存在として思っているかどうかで、そういった思想の違いに関しては、収容される際に面接があり、極端に日本寄りの思想を持っていると判断された者は、マンザナーよりもはるかに厳しい管理下に置かれていたツールレイク収容所に連れていかれ、逆にアメリカへの忠誠心が非常に高い者は、管理が甘いハートマウンテンを始めとする他の収容所に入ることができたという。

 ちなみにセキ氏の父親は面接のときに天皇陛下を否定することができなかったためにツールレイクに収容されてしまい、親子一緒に暮らすことができなかったというから気の毒な話だ。

 そのような思想的な振り分けがあったため、極端な考えの者はマンザナーには少ないことになるが、それでも現実にははっきりと派閥に別れ、さらにそこにハワイから収容された日系人も加わり、3つのグループでギスギスした生活が続いたという。

 この人間関係の苦労は大人たちの世界に留まらない。子供たちも苦労したというからなんとも悲しい話だ。
 アメリカで育った一般の日系二世と、帰米二世と呼ばれる子供たちの間で、いつも争いごとが絶えなかったという。

 帰米二世とは、一世の親が、自分の子供に日本語教育を受けさせたくて、一時的に日本に送り返し、日本で教育を受けたのち、再びアメリカに戻ってきたような子供たちのこと。
 彼らは戦前の厳しい日本の教育を受けているので天皇陛下に対する考え方などが一般の二世とは明らかに異なり、子供の世界といえども対立が起きやすい環境にあったことがうかがえる。

 展示に対して、厳しい写真や映像が少ないように感じられることもセキ氏は指摘してくれた。
 たとえば、ロサンゼルスから強制的に鉄道に乗せられ収容所まで連れて行かれる際、窓が無い貨車であったことを子供ながらにハッキリ覚えているという。

 しかし、展示場で見ることができる写真や映像は、向かい合わせの4人掛けの座席がちゃんと付いた客車で運ばれるシーンがほとんど。
 意図的に都合のいい写真だけを公開しているのかもしれないが、そう考え出すと、他の展示においても事実をすべて伝えていない可能性が出てくる。

 その他としては、野球を楽しくプレーしているシーンの展示などに関して、日本からのマンザナー見学者はそれを見て、ずいぶんのんびり優雅に過ごしているなぁ、などと思わないで欲しいと、我々に苦言を呈してくれた。

 人間関係がギスギスする環境で、来る日も来る日も塀の中に閉じ込められていたら、普通の大人ならば野球でもやっていないと気が狂ってしまうとのこと。
 たしかに言われてみればそのとおりで、収容という自由を奪われている者に対して優雅や豊かといった発言は失礼極まりないことで、慎むべきだと反省させられた。

 セキ氏によると、最大の悲劇は、4年間の拘束もさることながら、家などの財産の喪失だという。
 人によっては、収容される直前に白人の友人などに自宅の管理をお願いし、解放後に無事自宅にありつけた者もいるが、4年間の空白の間にどさくさ紛れに家を取られてしまった人が少なくないようだ。
 セキ氏は幸運にもすべてを失うことはなかったようだが、収容直前に広大な農地を買って、それを全部失った友人を知っているという。

 失ったものは家や土地などの不動産だけではない。収容時は、両手に持てる荷物だけ、という持ち込み制限があったため、家具などの私財は多くの人が失った。
 そのつぐないが、4年間という失った時間を含めてわずか2万ドル。本当に気の毒な話だ。
 突然の取材を快く引き受けてくれたセキ氏に改めて感謝の意を評し、このへんで終わりとしたい。

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